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みゅうみゅう

Author:みゅうみゅう
美味しいもの大好き!!

 このブログでは、「江戸時代」に焦点を当ててみました。
「江戸時代」といっても260年と長いので、物価に関しては、解りやすく1文20円で統一してあります。

現代のこと、畑や自然や旅行に関しては↓
http://blog.goo.ne.jp/myu-myueno

美味しいレストラン紹介は↓
http://u.tabelog.com/myumyueno/  

まで。。
良かったら読んでくださいね^^


また、江戸時代の色々な文献を読んでみてます。
面白い話題があったら、どんどん
以前の記事を改編していきたいと思っています。
写真の追加とかも・・・。

よろしくお願いします。m(。。)m...☆

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次月4月の江戸暦、お届けします。

≪4月≫


1日……【朔日(さくじつ)お供え】

    【更衣(ころもがえ)】この日より、
               5月4日までは袷(あわせ)を着る。
               9月8日までは足袋もはかない。


8日……【潅仏会(かんぶつえ)】釈迦の誕生日に行われる行事。
                寺に季節の花を飾り、
                花御堂の中に仏像を安置し、
                甘茶をかけて生誕を祝う。 



<4月>から初鰹が売られ始める。。
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こちらも”暴れん坊将軍・徳川吉宗”が庶民が楽しめるように
桜・桃・柳を植えさせたのが始まり。
(この時植えられた桜は100本あまり。)
花の名所を代表する第一位はここ!と、
江戸府内絵本風俗往来』に描かれています。

隅田川の桜の人気は、やはり清流と桜とゆー風景と
江戸中心部から歩いて1時間ほどと近かったことが要因でしょう。
河畔には、掛け茶屋や料理茶屋も立ち並びます。
船から眺められる風雅な桜とゆーコトで、
文人墨客(ぶんじんぼっかく)に人気があったそうです。
隅田川の土手は、墨提(ぼくてい)という
風雅な名前で呼ばれていたのもその一因でしょう。。
付近には、浅草寺や吉原も控えていて、遊ぶには絶好の場でした。

浅草寺の境内には、
古くから茶店や見世物小屋も数多く立ち並んでいました。
また、歌舞伎に芝居街が江戸後期初頭に猿若町に移ったこともあり、
浅草寺と川を挟んだ向かい側の向島は
芸人の遊びどころとしても知られていました。
そのような地での最新流行の風を感じることも出来たのです。

今もここは桜の名所としては一位二位を競ってますね。






江戸時代、リサイクル業者は色々いました。
今よりもっとエコ度が高かったのです。

こちら鋳掛屋は、金属製品の修理専門業者。

江戸時代から昭和期にかけての家財道具である鍋・釜は
鋳造によって作られていました。
当時の鋳造技術ではスが入りやすく、
またひび割れ等により穴が開くことが多々ありました。
その一方、「月夜に釜を抜かれる」といったことわざに
みられるように泥棒が真っ先に狙うほど鍋釜は大変な貴重品でした。
従って穴が開いたとしても、
容易に捨てたり買い換えたりするわけにいかず、
修理しながら使っていたのです。
燭台が折れたりした時も直して使っていました。

一般的には村々を巡回する商売でした。
従って鉄を溶解するような設備を持ち歩く訳には行きません。
鉛や錫などの低融点金属を用いて穴を塞いで(ハンダ)いたのです。
金属を「鋳て」(溶かして)「かける」から
いかけや」といったのです。

今では全く見かけませんが、
ものが貴重だった昭和30年代頃までは、
東京の住宅地でも巡回していたそうです。
但し、職業としては今も残っています。
小型の鐘、大釜などを直す鋳掛け屋です。







あの”暴れん坊将軍・徳川吉宗”が庶民が楽しめるように、
1270本の山桜を植えさせたのが始まりとゆー
飛鳥山の桜(現:飛鳥山公園)。。
江戸城内から移植した多くの桜の苗木が育つにつれ、
上野をしのぐ桜の名所に育っていったそうです。
江戸中期のことでした。

気兼ねなくどんちゃん騒げると、大人気の花見の名所だったそうです。
粋な計らいをする将軍・吉宗が人気があったのも頷けますね。

ただここは、遠いのが難点でした。
当時の交通事情だと・・・
江戸から泊りがけのお花見になってしまうのだとか。。
(江戸中心部から歩くと2時間ほど。)

ではどうして、そんな人気があったのでしょうか?
江戸後期になると”師匠の花見”などの団体がお花見に繰り出し、
素人も玄人も芸の披露していました。。
ここ飛鳥山は、その点、場所がたっぷりとあって人気だった訳です。

将軍・吉宗が治世を始めた当時、
江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなかったそうですから、
現在のお花見文化を育てたと言っても過言ではないのではないでしょうか?
開放時には、将軍・吉宗自ら
飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行ったそうです。
今の開幕キャンペーンみたいですよね?







江戸時代の人々の野遊びの筆頭だったお花見ですが、
もともと1本の名木を眺めるのが主流だったそうで、
今のお花見とは全然違いました。

桜の名所とゆーのは、いつ出来たのでしょう?

将軍・家光が吉野から桜を移植して桜並木を作ったのが
始まりとされています。
しかし、これが一般に開放されるのは江戸前期終わり頃
この頃から、
徐々に今のお花見に近い様子を見られるようになっていきました。

ただし、この上野の山の桜。
寛永寺を中心とした幕府の管理下にありました。
桜の時期にだけ、門を開いて庶民に入山が許されていました。
なので、お酒X・魚X・歌舞音曲Xだったそうで。。
いまいち人気爆発とまではいかなかった模様。
静かにお花見する老人や女子供が多かったそうです。

また、酔って乱暴・喧嘩が始まると、
山内を見廻ってる”山同心”とゆー者が
六尺棒を突き鳴らし取り鎮めに来ます。。

まあ。
これだけ規制が厳しければ、
人気もうなぎのぼりって訳にはいきませんよね@@







平安時代に桜に脚光が集まってから現在に至るまで、
日本人の心の琴線に触れる花として愛される桜。
今日本で「はな」といえば「さくら」と言ってもおかしくないほど、
親しまれる花になっています。

桜と一口に言っても実に様々な種類があります。
これらを少し、見ていきましょう。。
日本の桜の原種とゆーべき”自生種”は10種類ほどあります。

その代表格が「山桜」と「大島桜」です。
ともに花と葉が同時に開くとゆー特性があります。
山桜」の葉が赤褐色なのに対し、
大島桜」の葉は緑色をしているので、すぐに見分けがつきます。

江戸以前は「さくら」といえば「山桜」を指しました。
また「大島桜」の葉は、桜餅の使われることで有名です。
両者とも「染井吉野」と同じ時期に咲きます。

江戸彼岸桜」は彼岸の頃に咲くので、この名前があります。
この桜は、とても寿命が長く見上げるほどの大木に育ちます。
日本各地の「~桜」と名がつく一本桜は、たいてい”これ”です。

八重桜」は里桜とも言い、
おびただしい数のヴァリエーションがあります。
これらのほとんどが江戸時代に栽培品種として作られました。

また江戸時代前半には、
桜がいっせいに散る様子が武士に嫌われていたそうです。
その後合戦がなくなったことや、
「花は桜木、人は武士」という台詞が歌舞伎で使われたことなどから
武士が桜を嫌うことがなくなったともいわれています。。

江戸時代末期、この時代一番の改良品種が出てきます。
それは「染井吉野」。
江戸染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋が「吉野桜」と称し、
売り出したのが始まりで、
その後、桜の名所、吉野山のヤマザクラと区別するため、
この名がつけられたのが由来だそうです。
江戸彼岸桜」と「大島桜」の雑種です。
ただし、これが日本全国に広まったのは明治時代のことでした。。

現在では、400種もある桜の品種も
江戸に始まったものが多くあります。。
「お花見」が始まったのも、江戸時代。
とても華やかに、楽しく過ごしていた光景が目に浮かびますね。





梅は奈良時代に中国から伝わりました。
平安時代に桜が脚光を浴びるまで「花」といえば、
梅のことだったといいます。

江戸の梅の名所で有名なところといえば
<蒲田の梅屋敷><亀戸の梅屋敷>。。。
どちらも歌川広重の『名所江戸百景』に描かれています。

<蒲田の梅屋敷>は、元々は梅を採るために梅の栽培が盛んだった地に
「和中散」とゆー道中薬で有名だった商人が梅園を作ったのが始まり。
茶店”あずまや”等も設置して、客を呼んで評判になったといいます。
現在も京浜急行線に「梅屋敷」とゆー駅があって、
東京都大田区が管理する「梅屋敷公園」として名残が残っていますが、
規模は大幅に縮小されてしまいました。

<亀戸の梅屋敷>の方は、
「清香園」という呉服商の別荘だったところ。
竜が寝そべったような梅の大木があって、
その姿から”臥竜梅(がりょうばい)”と呼ばれて、
たくさんの見物客が集まって来ていたとか。
もともとこの梅は江戸中期、
将軍吉宗が自らの愛樹をここに預け植えたのが発端とされています。
こちらは、明治の中頃、洪水で枯れてしまって、
今は梅園もなくなり石碑が残るのみになっています。









今は、陶磁器を割ってしまっても接着剤などを使えば、
誰でも割合簡単に接着できますが、昔は修理専門の職人がいました。
割れた茶碗や瀬戸物類を接着して再生するのが普通だったのです。

古い時代は、陶磁器類の接着に漆を使っていました。。

江戸に入っても、高級品は漆で修理されていましたが、
江戸中期
白玉粉(鉛が主成分)やふのり(無色ガラス粉末)で接着してから
加熱する焼き接ぎ方を発明した人がいて、
普通の安い茶碗などは、この方法で修理するようになりました。

川柳や浮世絵では、
『番町皿屋敷』のお菊が井戸の中から皿の修理を頼み
焼継屋が腰を抜かす、といったシーンも登場するようになりました。









江戸時代、食べられることが多かった瓜。
日本では古来から「ウリ(フリとも)」の名で親しまれてきました。
縄文時代に伝わってきたとされています。

江戸時代にも様々な種類が出回っていました。
その中でも今回は、いくつかの瓜を取り上げてみたいと思います。
(胡瓜(きゅうり)は、前回取り上げましたよね?)

歯ごたえが自慢の白瓜・越瓜(しろうり)
奈良漬や浅漬けにして、よく食卓に上ったそうです。
胡瓜(きゅうり)より堅く、
その歯ごたえが江戸人の好みにあっていたのですね。

有名なのは、田端シロウリ(現在の文京区田端付近)や
      玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)
            (現在の大阪市中央区玉造付近)。

とくに玉造黒門越瓜は、一般に<くろもん>と呼ばれ、
実は最も長大、濃緑色で八~九条の白色の縦縞があり、
糟漬けにして美味しかったコトから浪花名産の一つとされていました。
江戸時代の狂歌師・貞柳も、

黒門といえども色はあおによし奈良漬にして味をしろうり

                    と一首読んでいます。


続いて、甘みが魅力の甜瓜・真桑瓜(まくわうり)
『水菓子』という異名を持つほのかな甘みの瓜。
副食として人気でした。
鳴子瓜(なるこうり)として呼ばれていたのは、その産地名から。
(現在の新宿区成子坂付近)
江戸初期 幕府は、
美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、
鳴子と府中の是政村(現在の府中市)に御用畑を設け、
甜瓜を栽培させていたそうです。

「上等の瓜で、唐瓜とも言い、暑気をはらい、
   喉の渇きを止め、二日酔いによく効くと、重宝がられている」


                     とあります。

そして今回最後は、冬瓜・鴨瓜(とうがん)

原産地は東南アジア。
古くは果実の表面に毛があることから
加毛宇利(カモウリ)とも呼んでいました。
「カモ=毛氈(もうせん)」に似ていると見たのですね。

奈良時代には価格がウリのなかで最高であったともいわれます。

江戸時代には、冬瓜を切売りしている様子が画かれているものもあり、
よく食べられていました。
果実は貯蔵性にすぐれ、半年間の保存にも耐えられます。


瓜は、庶民にとっても身近だった野菜。
いろんな種類があるのはもちろん、
ひとつの野菜にも様々な字が当てられていました。
上に記載されている漢字もその中の一部です。。











春の上げ潮は、日本橋界隈まで磯の香りを運んできたそうです。

江戸時代には、春になると一般庶民だけではなく、
良家の子女達もお供を連れて潮干狩りを楽しんでいました。
江戸時代で人気のあるレジャーだったのです。
遊びながらアサリや蛤などの食材を入手できるのですから、
楽しいはずです^^

日常では近くで見る事もない、
美しいお嬢様や高貴なお姫様達に合えるのを楽しみに
潮干狩りに出かけた男達も多かったそう@@
綺麗なお姫様を見るために潮干狩りに行きたいというのも、
平和な江戸時代ならではのちょっとした庶民の刺激だったのでしょう。
お嬢様は、こんな時も振袖だったようで・・・。

 振袖をくはえて歩く汐干狩

遠浅の海でおこなわれた潮干狩りは晩春から初夏にかけての風物詩。
『東都歳事記』では芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、中川などの
潮干狩りの名所を紹介しています。
このうち品川と深川洲崎は風景も良かったためか、とくに有名でした。。
品川は海辺の宿場町として栄え、
行楽客も多く人気のスポットだったからでしょう。

旧暦の3月3日頃(新暦の4月上旬)がもっとも潮干狩りに適していました。
それはこの頃が潮の干満が大きい「大潮」となるから。
秋にも「大潮」はありますが、
このときは潮が引くのが深夜になってしまうので、
チャンスは春しかないのです。
そこで、シーズン到来とともに江戸の人々は、
こぞって出かけたわけです。

また品川の潮干狩りは大勢の人で賑わい、
その様子は、多くの浮世絵に描かれています。
潮干狩りの浮世絵は、
なだらかに湾曲した海岸線と遠浅の海を描いた風景画であり、
また潮干狩りの賑わいを描いた風俗画であると同時に、
その多くは「美人画」でもありました。

最後に・・・潮干狩りの状況が『東都歳事記』にも描かれています。

『卯の刻過ぎより引き始めて午の半刻には海底陸地と変ず、
 ここに降り立ちて、蠣(かき)蛤(はまぐり)を拾い、
 砂中の平目をふみ、引き残りたる浅汐に小魚を得て宴を催せり』

   (卯の刻は午前6時頃、午の刻は12時頃)

当日は早起きをして、
家族や近所の人たちと一緒に出かけます。
弁当や酒肴を持参して一日かけて楽しむレジャーです。
まず船着き場から沖へ船を繰り出し、そのまま潮が引くのを待っています。
船の中で宴会をやっている男たち、浜では貝を拾う人、
蟹と戯れる子ども、
向こう側には浅くなった海をさらって貝を採っている男もいます。
女性も着物の裾を上げて潮干狩りに夢中になったようです。
とにかく、アサリや蛤がザクザク。
運が良ければ平目も発見できたし、
潮が引いた後に魚が残る場合もあります。
なんとものんびりしていい光景です。。





江戸時代の日本は「紙使用大国」でした。
江戸時代後期に日本へ来た西洋人の記録に、
日本人が紙をたくさん使うことに驚く場面が、しばしば出てきます。

日本に紙の製造が伝わったのは七世紀はじめ。
初めはやはり貴重な素材でした。
子どもの絵本やちり紙にまで使えるようになったのは、
世の中が平和で安定した江戸時代になってからです。。

しかし江戸時代、紙は全て手漉き和紙。
今よりはかなり貴重なものであることには変わりません。
一度使われた紙はすべて回収され、汚れ具合によって選り分け、
再生(漉き返し)されていました。

<紙屑買い>

買い取りを専門とする業者の主流は、昔も古紙回収業でした。
昔の言葉では<紙屑買い>といい、現在のちり紙交換業です。
紙屑買いは、天秤棒を担いで町を巡回して古紙を買い集める商人。

「てんかみくず、てんてん」と言い歩いて買い集めていました。
        (「てんてん」は古手の意味 )

普通は零細ではあっても自分の資本を持った商人で、
不要になった帳簿などの製紙品を適当な価格で買い取り
紙屑問屋に売ります。
主に古紙を買ったから紙屑買いというのですが、
この業者は、実際にはほとんどあらゆる不要品を買ったようです。
古金といって、不要になった金属製品、
場合によっては古着、古布などを買う紙屑買いも多かったようです。
昔は何を買っても転売して利益を上げられたことが解ります。

<紙屑拾い>

資金はないですが、
それでもリサイクル産業に従事したいとゆー人は紙屑拾いを職業にします。
同じ古紙を集める専門業者でも、
こちらは籠を肩にかけ、
町中をせっせと歩き廻って落ちている紙を拾い、
それを紙屑問屋へ持っていって、わずかな日銭をかせいでいました。
こういう人でも何とか最低限の生活ができたほど、
昔はものが貴重だったのです。
江戸時代の絵にはあちこち登場します。かなり大勢いたようですね。

<紙屑問屋>

古紙、紙屑(蜜柑の皮や綿屑や糸屑も・・・)を仕分けし、
主として漉き返す業者に卸した点も今と大差ないです。
現代の紙は、1ミリか2ミリぐらいの長さしかない
パルプの繊維でできていますが、
伝統的な和紙は、10ミリ以上もの長い植物繊維でできていて、
しかも、ほかに 加物がなく漉き返しが容易でした。
そのため、各種の古紙を集めてブレンドし、
ちり紙から下級印刷用紙まで、
様々な再生紙に漉き返すことができたのです。 

  <漉き返し>

   古紙から再生紙を作ることを、
   江戸時代では「漉き返し」と呼びました。
   漉き返し紙には高級なものから安価なものまで多様なレベルがあり、
   安価なものは「落とし紙」(トイレットペーパー)などに
   使われました。
   有名な漉き返し紙には、江戸の「浅草紙」、京の「西洞院紙」、
   大坂の「湊紙」などがあります。

         ①古紙を細かくする。
         ②釜で煮る。
         ③桶で冷やす。
         ④水を絞り、川で洗う。
         ⑤板の上でたたく。
         ⑥漉いて乾かす。



現在の日本の製紙原料中の古紙の比率は、
世界最高の五十数%にも達しています。
江戸時代の比率はよく解っていませんが、
これ以上だったのではないでしょうか?


☆落語に「紙屑屋」とゆーお噺があります。
 このお噺&紙屑屋について、
 下記のサイトで解りやすくイラスト化されています。
 よかったらどうぞ^^
  →http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/index.html










現在でもよく食べられる胡瓜。
インド北部、ヒマラヤ山麓が原産です。

日本では平安時代から栽培され始めます。
胡瓜の「胡」という字は、
シルクロードを渡って来たことを意味しています。

江戸時代 、胡瓜は、毎日の食卓に頻繁に登場したといわれています。

「 切り口が葵の御紋に似ているから恐れ多い 」

と、口にしない武士もいたといいますが、
庶民は、生で・ぬか漬けで・一夜漬けで、好んで食べていました。

江戸で最初に胡瓜が作られたのは砂村。
(現在の江東区北砂・南砂付近)
節成胡瓜(ふしなりきゅうり)という品種が
関西方面から伝わってきたことに端を発します。

胡瓜は、気温や風雨といった気候条件には左右されますが、
土の性質にはこだわらず、
保水能力さえあればどこでも栽培できる野菜です。
砂村で盛んに栽培されるようになったのは、
むしろ下肥の入手が容易であったことが要因のようです。
胡瓜は、短期間で成長する野菜。
当然何度も追肥が必要になってきます。
なおかつ水肥を好むので、下肥は有効だったのです。

また、<聖護院胡瓜(しょうごいんきゅうり)・京都>や
<毛馬胡瓜(けまきゅうり)・大阪>は、
江戸時代に品種改良されたものです。



ただし、江戸初期の胡瓜は相当苦かったようで・・・。
なぜなら、当時、
胡瓜は完熟させて黄色く熟したきゅうりを食べていたようなのです。
その頃の文句が残っています。

「 これ瓜類の下品なり。味良からず、かつ小毒あり。(菜譜1714年)」 

「 毒多くして能無し。植えるべからず。食べるべからず。(水戸光圀)」



江戸末期になり、江戸砂村できゅうりの早出し栽培が始まります。
今のように緑色の胡瓜が出回るようになったのです。
それから、がらっと胡瓜の野菜としての格が変わりました。

ご飯のおかずやおやつに便利な野菜・胡瓜は、
江戸末期から庶民の喜ぶ味の野菜になったわけですね。









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