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みゅうみゅう

Author:みゅうみゅう
美味しいもの大好き!!

 このブログでは、「江戸時代」に焦点を当ててみました。
「江戸時代」といっても260年と長いので、物価に関しては、解りやすく1文20円で統一してあります。

現代のこと、畑や自然や旅行に関しては↓
http://blog.goo.ne.jp/myu-myueno

美味しいレストラン紹介は↓
http://u.tabelog.com/myumyueno/  

まで。。
良かったら読んでくださいね^^


また、江戸時代の色々な文献を読んでみてます。
面白い話題があったら、どんどん
以前の記事を改編していきたいと思っています。
写真の追加とかも・・・。

よろしくお願いします。m(。。)m...☆

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日本のひな祭りはいつ頃から始まったのか、
はっきりととしていませんが、その起源はいくつか存在しています。

平安時代、上巳の節句の日は薬草を摘んで、
その薬草で体のけがれを祓って健康・厄除けを願っっていました。
やがて、この節句の行事と宮中の"紙のきせかえ人形"で遊ぶ
『 せいな遊び 』が融合します。
当時も、やはり小さな御所風の御殿・屋形をしつらえ
飾ったものと考えられています。
しかし、それはどこまでも<遊びごと>で、
儀式的なものではありませんでした。
(そこに雛あそびの名称の由来があります。)
そしてこれが、自分の災厄を引き受けてくれたその紙人形を川に流す
『 流し雛 』へと発展していくのです。

室町時代になると、この節句が三月三日に定着。
そして、紙の雛の豪華なお雛様を飾って
宮中で盛大にお祝いをするようになったのです。
それが宮中から、武家社会・裕福な家庭や名主の家庭へと広がっていき、
今のひな祭りの原型が完成しました。

これが江戸時代
全国に広まり、飾られるようになっていきました。

この<雛あそび>が<雛祭り>へと変わったのは、江戸初期
この頃から、三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったとされています。
もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、
一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味あいが強く、
武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の
重要な家財のひとつに数えられていました。
その為、自然と華美になり、贅沢に流れるようになっていったのです。

形代の名残を残す立った形の立ち雛や、
坐った形の『 坐り雛(寛永雛) 』が作られていましたが、
これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物でありました。

その後時代が下ると人形は精巧さを増し、
十二単の装束を着せた『 元禄雛 』、
大型の『 享保雛 』などが作られていきます。
金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた豪勢なものでした。

江戸中期になると、
人々の消費を規制するため一時的に大型の雛人形が
当時の幕府によって規制されましたが、
この規制を逆手にとって、
『 芥子雛 』とよばれる数センチの大きさの精巧を極めた
雛人形が流行することになります。

江戸時代後期には、
『 有職雛 』とよばれる宮中の雅びな衣装を正確に再現したものがあらわれ、
さらに今日の雛人形につながる『 古今雛 』が現れます。

この後、江戸末期から明治にかけて
雛飾りは二人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、
内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、
御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていきました。

それ以降、雛祭りは明治・大正・昭和と盛んとなってゆきます。








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毎月お届けしている江戸暦の3月版です。

≪3月≫

1日……【朔日(さくじつ)お供え】
       二階座敷や蔵、庭を掃除、ひな祭りの飾りつけも行う。

3日……【上巳(じょうし)御祝い・節供(せっく)】ひな祭り
       
       富裕層は、雛壇に菱餅・あられ・炒り豆
        ・蛤(はまぐり)の吸い物・白酒を供え
        女の子の厄除けと健康を祈願した。

       庶民は、磯や河原で季節のご馳走を楽しんだ。      

   
    【節日お供え】神棚・竈神に、御灯明、御神酒、
                     食膳を供える。    

25日…【勧進相撲】


<3月>は、花見や潮干狩りのシーズンでもあったようです。






江戸の味覚は「三白」「五白」に集約されるといいます。
白米・豆腐・大根・鯛(白身魚)・白魚。
これらが江戸の人の好む味、江戸の人に舌にあった味だそうです。
淡白でデリケート、すっきりした味わいに粋を感じる心。
格の高い研ぎ澄まされた味の世界だと言われています。

しかし、今の日本の食生活でこの「五白」を真に味わえる人は、
あまりいないものと思われます。
濃い調味料に慣らされた舌では、なかなか味わえないものばりですから。

好みの味も時代によって変わる、のでしょうね。。。
例えば、鰹。
今では、戻り鰹が上の評価を受けることが多いようですが、
江戸時代では、断然『初鰹』。
鮪のトロにいたっては、下魚の下。捨てる魚だったのです。

ですが、文化の保存のためにも、体のためにも、
この「白」の代表格。
大事にしていきたいですよね。








江戸の都市部では白米が浸透し、
ビタミンB1不足からくる『脚気』を患う人が増えていました。
(これを【江戸患い(わずらい)】と呼んでいました。)
その中、小松菜は真冬にも食べれる青物として重宝がられていたのです。
今でこそ1年中出回っていますが、もとは冬野菜の小松菜。
寒い時期こそ美味しくなる野菜なのです。

この小松菜。
原産地は南ヨーロッパの地中海沿岸といわれ、中国を経て、
鎌倉時代には日本に入ってきました。

そして、江戸初期には、江戸川区近辺で盛んに栽培されていたといいます。
中川と江戸川に挟まれた温暖な低湿地が生育に適していたようです。
ただし、この頃は<葛西菜><冬菜>と呼ばれていて、
決まった呼び名はなかったのです。

その<葛西菜>を小松川村の椀屋九兵衛が品種改良し、
味・香り・栄養ともに優れた葉野菜に育て上げます。
これが現在の小松菜です。

<小松菜>の命名したのは、江戸中期、八代将軍吉宗であったといいます。
鷹狩で訪れた吉宗の休憩所として使用した香取神社の神主が、
餅のすまし汁に小松菜をあしらって吉宗に差し上げたところ、
大変喜ばれ、小松川の地名から<小松菜>という名を与えたといわれています。

江戸後期の『新編武蔵風土記稿』の中には、

「菜は東葛西領小松川辺の産を佳作とする。
                世に小松菜と称せり。」
とあります。

小松菜が広く親しまれていたことが、伺えますね。







現在の国内作付・収穫量ともにトップクラスの野菜。
私達にも身近なこの食材<大根>が、
(英語で表すとJapanese Radish。)
意外にも、外来種だって知ってます?
しかし、鎌倉時代には普及していたとはいえ
日蓮上人の見た大根は「大仏殿の大釘」程の太さ。
品種改良が進められたのは室町時代の中期。
今のような太さ・大きさになったのは江戸時代の中期の頃だとか。

大根はいずれ世帯の料理草

江戸時代も中期になると、大根は庶民の味方に。
練馬大根を筆頭に亀戸大根等、近郊でふんだんにとれました。
安価で利用価値大。
今以上に使われていました。
生で、おろして、塩もみ、ぬか漬け、三杯酢、ゆでて、煮込んで、
炒めて、揚げて・・・・。
捨てる部分もありません。
葉はみじん切りにして、ふりかけに。
皮は細く切って、きんぴらに。。
食べごたえもあって胃にもたれないと大人気でした。

下女大根五百三本ほどにうち

二の腕たくましい山出しの下女は、ざくざくっと大根をきざみ、
千六本の倍の太さにきざんでるとゆー茶化し川柳です。







日本では、牛馬などの獣肉を食べることは長らくタブーとされてきました。

この【肉食禁忌】は、律令国家が仏教を国教としたためとする説が一般的です。
しかし、そう単純ではないとの説もあります。
それは、稲作との関係。
米の極端な尊重との裏腹な関係から、【肉食禁忌】は強まってきたのではとの考え方です。

しかし、江戸時代の後期に入ると滋養強壮食として、
猪(いのしし)や鹿(しか)を食べる習慣が生まれます。
(それまでも「薬食い」という口実のもとに
 山村に暮らす人々や将軍・大名達は獣肉を食べていましたが・・・。)
専門店も登場。
ですが、世間をはばかってか猪肉は山鯨(やまくじら)と隠語で呼ばれていました。
あくまで鯨だとしたのです。

この猪の白い脂肪に縁どられた赤い肉は、切り分けて皿に盛りつけると、
「牡丹(ぼたん)」の花のように見えることから、「牡丹」とも呼ばれていますね。
厳しい冬を乗り切るための栄養補給源として食べられていたようです。


*獣肉を総称して、山鯨と呼ぶこともありました。







長屋の朝は、明け六つ(午前6時頃)に始まります。
普通明け六つの鐘が鳴らされるのは、夜明け30分前。
まだ暗いうちから、江戸の朝は始まっていたのです。

朝食はどんなものだったのでしょうか?

まず1日分のご飯を炊いて、鍋で御御御汁(おみおつけ)を作ります。
調理はこれだけ。
漬物鉢を出せばおしまいです。。

ゆとりのある家では、煮た豆などのおかずがつくこともありましたが、
通常は「飯・御御御汁・漬物」が定番でした。
たまに納豆がつくと大喜びの朝食だったのです。

納豆と蜆(しじみ)に朝寝起こされる

ただ、御御御汁の具は毎朝、
天秤棒で家先にまで売りに来る棒手振り(ぼてふり)から新鮮なものを買います。
 (上記の川柳にもありますね。。。)
具は、必ず2種類以上だったとか。。。
 (今の食事事情を考えると、逆に<ご馳走>と言えるのかもしれません。
だけど、この字すごいですよね?
「御」が三つ。非常に価値ある食べ物だったことが想像されますね。
そして、この御御御汁、飲まれるのは朝だけだったようです。
大振りのお椀でいただいていました。

炊き上がったご飯は、釜から飯櫃(めしびつ)に移され、
これで1日が賄われます。
ご飯は、朝のみ炊くものだったのです。。






江戸市民は、元旦・二日・三日の「三箇日」にそろって「雑煮椀」を食べるならわしでした。

江戸の「お雑煮」とはどんなものだったのでしょう?

江戸は、多国籍都市。
諸国からたくさんの人が流入して暮らしている都だったので、
ひとつ屋根ごとに異なる「ふるさとの雑煮」がありました。
味噌味・白味噌味・すまし汁・けんちん汁・煮込みetc...
はじめは、みんなこれを食べていました・・・。

さて変わって、江戸にも「江戸の雑煮」がありました。
家康が江戸入りした頃からずっと変わらず守り伝えられている味。
いたってシンプルな具。
焼いた切り餅に醤油味のすまし汁。
小松菜・大根・里芋が泳ぐように、ちょこっと入ってるもの。

これはめでたさに浮かれる正月気分を引き締め、奢りを戒め、
質実剛健の「もののふのこころ」を忘れないようにしようとする心。
これを将軍をはじめ、旗本・御家人・中間・小者といったものまで、
貴賎の別なく主従平等の椀を三日間食べ続けることによって、
家内の団結を一層高める役割があったそう。。

神君家康公の教えは絶対でした。
代々の将軍は、これに習い「質実剛健な江戸の雑煮」を受け継いでいきます。
将軍がこれをするのですから、まさか「豪華な雑煮」を従者が食べるわけにいかなく・・・
右に習えで、延々とそうなっていきます。

これがいつしか庶民に広がり、
裏長屋の中まで、
この「質実剛健な江戸の雑煮」「質素で慎ましやかな雑煮」を食べることになります。

そして、この川柳。

三日喰う雑煮で知れる飯の恩

米大好きな江戸庶民、正月頭の我慢のしどころになったのです。
米を食べれないのは、さぞ辛い出来事だったのでしょう。





江戸町人の7割が住んでいた長屋。
決して広い場所ではないスペースには一体何が置かれていたのでしょうか?

いろいろ見てみると台所用品が主のようですね。
(まあ、狭いですし・・・)

まず台所の中心に来るのは【へっつい(竈・かまど)】で、単身者であれば1口。
夫婦者が住むようなところでは2口。
煮炊きはこの【へっつい】で行われていました。
この竈はたいがいが土製で、ひびわれてくると左官屋を呼んで直したそう。

しかしこの【へっつい】があるのも裕福な家庭のみ。(下のような歌が残されています)
土間や外で魚を焼いたり出来る【七輪(しちりん)】や【火鉢】で
代用する庶民も多かったそうです。
(下記の【火吹き竹】や【火打石】がいらなくなる・・・)
移動式コンロですね。


竈(へっつい)の地からはえてるいい暮らし


その他にも【すり鉢】【すりこ木】【菜箸(さいばし)】【杓子】【しゃもじ】【おろし金】【包丁】
【まな板】【笊(ざる)】【米櫃(こめびつ)】【箱膳】【水瓶(みずかめ)】【団扇(うちわ)】
【桶(おけ)】【たわし藁(わら)】【火吹き竹】【火打石】
等が一般的だった様ですね。

この中でも金属製品は高価なもので、
<所帯を持つ=鍋・釜を持つ>が、同義語だったとか。

そして【すり鉢】は、大活躍。
とろろ、ゴマ味噌などのすりつぶす料理も多かった他、
米とぎや盛り鉢としても使われていました。

今と同じく、独身男性の部屋は寝るだけのものと割り切り、
【へっつい】や【包丁】も持たないでいる男性も多かったようです。


そのほかの家財道具は、
【小さな戸棚】【長火鉢】【行灯(あんどん)】【寝具】【鏡台】【神棚】のみのシンプルさでした。







裕福な階級の子女にとってのステイタスは大奥に勤めること。
2,3年の大奥勤めを終えた「御殿下がり」の女性達は、
方々から良縁が殺到したといいます。

奥勤めは、江戸城だけに限らず、諸大名の家中や旗本衆の家中にもありましたが、
こちらは所詮、今でゆー女子短大。
やはり目指すは、江戸城大奥でした。

江戸城大奥に登用されるのは原則として家臣の子女。
しかし、御目見得以下の軽い役職(役職についてはここをクリック)には、
一般採用もあったそうです。
ですが、入り込むのはかなりの難問。至難の業です。

家臣の子女以外が使うは、「コネ」「コネ」「コネ」「コネ」。。。。
この「コネ」をつける為に多額の裏金が動いたそうです。
そして、次は趣味技能。唄に踊り、習字。。。
(これらは流儀があり、町中で習ったものは適さない)

やっぱり裕福じゃないとは入れないじゃないか~!

そうなんです。ほとんどは「コネ」と「金」の世界。
町中の一般子女はなかなか難しいのが現状です。

その中で、町人の娘が大奥登用される、唯一の道。。。
それは「体力」です。。

何故なら大奥の女性は、ほとんどが深窓の令嬢。
重いものなど持てません。持ったことがないのですから。
ことに、奥方やお局は玄関に行くにも廊下をかごで進みます・・・。

そんな中「体力」のある体つきのがっちりした娘は、間違いなく採用。
かごかき・井戸水汲みなどの人足仕事に明け暮れる毎日です。
優雅なことは何一つない「採用」です。

それでも2,3年我慢し、「御殿下がり」「宿下がり」してしまえば、
りっぱな「元御殿女中」
やはり良縁が引く手あまた。
(もちろん家臣の子女・裕福な子女とは引く手の種類は変わりますが・・・)


まとめると、登用される条件は・・・
  一に<家臣の子女>→【上(じょうろう)】~【御三之間(おさんのま)】
  二に<コネの使える裕福な子女>→【御目見得以下(おめみえいか)】
  三に<体力のあるがっちりした町人娘>→御目見得以下の中でも一番下っ端
                 【御末(おすえ)】に【お犬(おいぬ)】


こんな感じですね。
ステイタスや行儀作法を身につけたい子女にとっては、良い勤め口なのかもしれませんね。





日本で始めてラーメンを食べた人、それは<水戸光圀公>です。
<黄門様>です。。

<光圀公>はあるとき、来日していた中国の儒学者<朱瞬水>を水戸藩に招きました。
武家社会に中国熱が高まっていた時代、
本場の儒者から直接まなびたいとゆー気持ちがあったのでしょう。
儒学にひどく熱心だったとゆー記録もある<光圀公>です。

その<朱瞬水>が中国の珍味として、ラーメンを振舞ったのが初とされています。

 ( 現在の後楽園(東京都文京区)は、水戸藩上屋敷があったところで、
 この後楽園とゆー名前も<朱瞬水>が名付けたそうです。)

<朱瞬水>は中国をより知ってもらおうと唐の品を色々献上しています。

小菅桂子の『水戸黄門の食卓』では、献上品の中にレンコン粉が必ず入っていたとされます。
<朱瞬水>はこれを使った平麺を打ってもてなしたそうです。
スープには、豚の腿肉を塩漬けにした中国ハムを使用。
塩味のラーメンでした。
この時、<光圀公>は、麺の薬味であった【胡椒】も伝授されています。

この時は麺は、田舎そばのようであり、薬膳料理のようなものと言います。
美味しかったかは、ちょっと疑問です。

ただ、<光圀公>はこの麺をいたく気に入り、後に自分で打っていたそうです。
手打中華麺に五辛(生姜・にんにく・ニラ・葱・らっきょう)を添えるのが、黄門流でした。






鮨の歴史は古く、奈良時代から存在したといわれています。
貢納品として政府に納められていたようです。
当初は、鮒や鮎等の魚介類に塩を振りご飯と一緒に漬け込んだ「熟鮓(なれずし)」でした。
この頃は、ご飯は食べるものではなく捨てていました。
魚介類の保存食だったわけです。
琵琶湖周辺の「鮒鮨」にその名残をとどめています。 


          ↓

室町時代に入ると、「なまなり」「なまなれ」と言って、
漬け込み時間を短縮しご飯も一緒に食べる鮨へ変化していきました。

          ↓

江戸中期の元禄年間に入ると、
魚やご飯に酢を入れた今のタイプの鮨に近づいてきました。
上方から「押し鮓」が入ってきたのです。

行楽のお供として食べられていた「押し鮓」は、
棒手振(ぼてふり)や屋台で売られていました。
花見の席への出前もあったとされています。

この鮨は、漬け込み時間が「なまなり」より早いので
「早ずし」「一夜ずし」とも呼ばれていました。
これには「箱鮓」「柿鮓」などがあります。

          ↓

続いて登場するは、「笹鮨」別名「笹巻鮨」「けぬき寿し」。
江戸・安永年間のことです。
鮨飯を1個ずつ熊笹で巻いて軽く押しをしたものをいいます。

          ↓

いわゆる江戸前、「にぎり鮨」が登場したのは江戸・文政年間(1818~30)。
華屋与兵衛とゆー人が開発されたそうです。 

鮨種には、こはだ・白魚・鮑・玉子焼きなど。。
(現在人気の高級魚・鮪のトロはこの頃は見向きもされないものだったとか・・・
      →ヅケにして売り始めた頃から定番として定着したそう)
気の早い江戸っ子にぴったりの即席鮨の屋台は、またたくまに普及しました。

ところが、当時のグルメブームと相まって1個200文(4000円)もしたそうです。
まあ、その後天保の改革で贅沢を理由に鮨職人が200人以上捕まったことを皮切りに、
価格破壊が起こり、結局1個4文(80円)に落ち着いたそうですが。。。
「稲荷鮨」1個4文(80円)
併せて、大工や丁稚にも口に出来るファーストフードとしての地位を確立しました。



江戸の中期
にこのように大流行し始めた理由として、
酢・醤油・塩等の流通、東京湾の魚介類の豊富さ、
そして、江戸っ子の気の短さに一因があると思われます。。。






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