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みゅうみゅう

Author:みゅうみゅう
美味しいもの大好き!!

 このブログでは、「江戸時代」に焦点を当ててみました。
「江戸時代」といっても260年と長いので、物価に関しては、解りやすく1文20円で統一してあります。

現代のこと、畑や自然や旅行に関しては↓
http://blog.goo.ne.jp/myu-myueno

美味しいレストラン紹介は↓
http://u.tabelog.com/myumyueno/  

まで。。
良かったら読んでくださいね^^


また、江戸時代の色々な文献を読んでみてます。
面白い話題があったら、どんどん
以前の記事を改編していきたいと思っています。
写真の追加とかも・・・。

よろしくお願いします。m(。。)m...☆

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梅は奈良時代に中国から伝わりました。
平安時代に桜が脚光を浴びるまで「花」といえば、
梅のことだったといいます。

江戸の梅の名所で有名なところといえば
<蒲田の梅屋敷><亀戸の梅屋敷>。。。
どちらも歌川広重の『名所江戸百景』に描かれています。

<蒲田の梅屋敷>は、元々は梅を採るために梅の栽培が盛んだった地に
「和中散」とゆー道中薬で有名だった商人が梅園を作ったのが始まり。
茶店”あずまや”等も設置して、客を呼んで評判になったといいます。
現在も京浜急行線に「梅屋敷」とゆー駅があって、
東京都大田区が管理する「梅屋敷公園」として名残が残っていますが、
規模は大幅に縮小されてしまいました。

<亀戸の梅屋敷>の方は、
「清香園」という呉服商の別荘だったところ。
竜が寝そべったような梅の大木があって、
その姿から”臥竜梅(がりょうばい)”と呼ばれて、
たくさんの見物客が集まって来ていたとか。
もともとこの梅は江戸中期、
将軍吉宗が自らの愛樹をここに預け植えたのが発端とされています。
こちらは、明治の中頃、洪水で枯れてしまって、
今は梅園もなくなり石碑が残るのみになっています。









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春の上げ潮は、日本橋界隈まで磯の香りを運んできたそうです。

江戸時代には、春になると一般庶民だけではなく、
良家の子女達もお供を連れて潮干狩りを楽しんでいました。
江戸時代で人気のあるレジャーだったのです。
遊びながらアサリや蛤などの食材を入手できるのですから、
楽しいはずです^^

日常では近くで見る事もない、
美しいお嬢様や高貴なお姫様達に合えるのを楽しみに
潮干狩りに出かけた男達も多かったそう@@
綺麗なお姫様を見るために潮干狩りに行きたいというのも、
平和な江戸時代ならではのちょっとした庶民の刺激だったのでしょう。
お嬢様は、こんな時も振袖だったようで・・・。

 振袖をくはえて歩く汐干狩

遠浅の海でおこなわれた潮干狩りは晩春から初夏にかけての風物詩。
『東都歳事記』では芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、中川などの
潮干狩りの名所を紹介しています。
このうち品川と深川洲崎は風景も良かったためか、とくに有名でした。。
品川は海辺の宿場町として栄え、
行楽客も多く人気のスポットだったからでしょう。

旧暦の3月3日頃(新暦の4月上旬)がもっとも潮干狩りに適していました。
それはこの頃が潮の干満が大きい「大潮」となるから。
秋にも「大潮」はありますが、
このときは潮が引くのが深夜になってしまうので、
チャンスは春しかないのです。
そこで、シーズン到来とともに江戸の人々は、
こぞって出かけたわけです。

また品川の潮干狩りは大勢の人で賑わい、
その様子は、多くの浮世絵に描かれています。
潮干狩りの浮世絵は、
なだらかに湾曲した海岸線と遠浅の海を描いた風景画であり、
また潮干狩りの賑わいを描いた風俗画であると同時に、
その多くは「美人画」でもありました。

最後に・・・潮干狩りの状況が『東都歳事記』にも描かれています。

『卯の刻過ぎより引き始めて午の半刻には海底陸地と変ず、
 ここに降り立ちて、蠣(かき)蛤(はまぐり)を拾い、
 砂中の平目をふみ、引き残りたる浅汐に小魚を得て宴を催せり』

   (卯の刻は午前6時頃、午の刻は12時頃)

当日は早起きをして、
家族や近所の人たちと一緒に出かけます。
弁当や酒肴を持参して一日かけて楽しむレジャーです。
まず船着き場から沖へ船を繰り出し、そのまま潮が引くのを待っています。
船の中で宴会をやっている男たち、浜では貝を拾う人、
蟹と戯れる子ども、
向こう側には浅くなった海をさらって貝を採っている男もいます。
女性も着物の裾を上げて潮干狩りに夢中になったようです。
とにかく、アサリや蛤がザクザク。
運が良ければ平目も発見できたし、
潮が引いた後に魚が残る場合もあります。
なんとものんびりしていい光景です。。





日本のひな祭りはいつ頃から始まったのか、
はっきりととしていませんが、その起源はいくつか存在しています。

平安時代、上巳の節句の日は薬草を摘んで、
その薬草で体のけがれを祓って健康・厄除けを願っっていました。
やがて、この節句の行事と宮中の"紙のきせかえ人形"で遊ぶ
『 せいな遊び 』が融合します。
当時も、やはり小さな御所風の御殿・屋形をしつらえ
飾ったものと考えられています。
しかし、それはどこまでも<遊びごと>で、
儀式的なものではありませんでした。
(そこに雛あそびの名称の由来があります。)
そしてこれが、自分の災厄を引き受けてくれたその紙人形を川に流す
『 流し雛 』へと発展していくのです。

室町時代になると、この節句が三月三日に定着。
そして、紙の雛の豪華なお雛様を飾って
宮中で盛大にお祝いをするようになったのです。
それが宮中から、武家社会・裕福な家庭や名主の家庭へと広がっていき、
今のひな祭りの原型が完成しました。

これが江戸時代
全国に広まり、飾られるようになっていきました。

この<雛あそび>が<雛祭り>へと変わったのは、江戸初期
この頃から、三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったとされています。
もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、
一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味あいが強く、
武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の
重要な家財のひとつに数えられていました。
その為、自然と華美になり、贅沢に流れるようになっていったのです。

形代の名残を残す立った形の立ち雛や、
坐った形の『 坐り雛(寛永雛) 』が作られていましたが、
これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物でありました。

その後時代が下ると人形は精巧さを増し、
十二単の装束を着せた『 元禄雛 』、
大型の『 享保雛 』などが作られていきます。
金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた豪勢なものでした。

江戸中期になると、
人々の消費を規制するため一時的に大型の雛人形が
当時の幕府によって規制されましたが、
この規制を逆手にとって、
『 芥子雛 』とよばれる数センチの大きさの精巧を極めた
雛人形が流行することになります。

江戸時代後期には、
『 有職雛 』とよばれる宮中の雅びな衣装を正確に再現したものがあらわれ、
さらに今日の雛人形につながる『 古今雛 』が現れます。

この後、江戸末期から明治にかけて
雛飾りは二人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、
内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、
御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていきました。

それ以降、雛祭りは明治・大正・昭和と盛んとなってゆきます。








江戸庶民の楽しみの一つ、それが<見立番付>。
今でゆー週刊誌のような一枚刷りの読み物です。
1枚4文・80円なので、気軽に買うことが出来ました。

芝居番付や相撲番付の形を真似、
美人・朝顔・菊・諸国名物・流行・評判の食べ物・金魚・山・川・温泉・料理屋・歌人等を
東西に分けて序列をつけたものです。
社会風刺にもなっていたトコロに、江戸庶民の心の自由さが感じられます。

これを印刷して売っていたのが<見立番付>ですが、
江戸庶民は「なるほど~~」「それは違う」「そうそう」と言い合い、
共感や笑いを楽しんでいました。


例えば『浮世人情見立評判』とゆー番付では、
東の大関に「憎いもの」として「しわいやつが金持ち(せこい人が金持ち)」。
また「似合わぬもの」として「三味線をひくお坊様」「神主が装束姿で寺参り」とあります。。


『浮世たくさんの人 すくない人の見立スモウ』とゆー番付では、
「たくさんな人」の大関として「金持ちのしわん坊(けちん坊)」。
関脇に「娘の芝居好き」。小結に「嫁いびりの婆さん」。
前頭に「かかにまかれる亭主」。前頭に「成上り者の義理知らず」。
とあり、「すくない人」の大関として「色気はなれた出家」。
関脇に「太夫になるかむろ(上級遊女に使われる少女)」。
小結に「姑に孝行な嫁」。前頭に「妾宅の子もち」「十年もつづく茶屋の客」。
等等と。


今読んでも、そうそうと言ってしまう様なものが多く、
観察眼の鋭さを感じることが出来ます。










--金魚が生まれたのは、中国。
 中国語で金魚は「チンユイ」と発音します。
 チンユイは中国語の「金余」(余有ができる)
 と発音が同じ事から、中国では金魚は金が余る、
 蓄財に通じる縁起の良い魚とされています。
 また、金魚がたくさん卵を産むのも、多産祈願につながり、
 こちらの意味でも縁起の良い魚とされているようです。
---



今から500年程前の室町時代、
大阪の堺に中国から渡来したとされています。

          ↓ 

江戸時代の前期には、まだ大名などの一部の特権階級
・富裕層だけの贅沢な趣味でした。


この頃、豪商淀屋辰五郎は、
天井にとりつけたガラス製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、
下から眺めることにより暑気払いをしたと伝えられています。

          ↓ 

江戸時代の中期には、
武士が副業として金魚養殖を行なうなどをしたこともあり、
メダカとともに庶民の愛玩物として広まっっていきました。


浮世絵や俳諧・川柳などにも頻繁に金魚が登場するようになって、
金魚は日本人の生活に確実に定着していきました。

「裏屋住み つき出し窓に 金魚鉢」

1748年に出版された『金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)』が
飼育熱を生んだといわれています。
ただ当時は今のような飼育設備もなかったために、
池を持っているような武士・豪農・豪商でもなければ
金魚を長く生かし続けることは不可能でした。

庶民は、金魚玉と呼ばれるガラス製の球体の入れ物に金魚を入れ
軒下に吊るして愉しんだり、
たらいや陶器・火鉢などに水を張って飼育したようです。

          ↓

金魚売は江戸時代後期に登場した職業。

夏の季語でもあります。

夏の間、涼しい時間帯に天秤棒に提げたタライの中に金魚を入れ、
独特の甲高い売り声を上げながら街中を
ゆっくりとした足取りで売り歩いていました。
金魚売の多くは、日銭を稼ぐために短期で勤めていたものらしく、
冬になると扇の地紙売りなど別の仕事を請け負っていたようです。
水の入ったタライを担ぐため意外に重労働で、
金魚売の多くは若者でした。

この頃には町人の間に金魚を観賞魚として飼育する習慣が広まって、
金魚鉢(ガラス製の球形の水槽)に藻などを入れて
飼育するようになっそうです。




そして現在<宇宙へ>

1994年7月8日には、宇宙酔いなどの研究のため、
弥富町(当時)産の6匹のキンギョが向井千秋宇宙飛行士らとともに
スペースシャトル「コロンビア」号に搭乗しました。

そのスペースシャトルの実験で誕生した
「宇宙メダカ」の子孫1万匹が現在、
六本木ヒルズの毛利庭園に放流されているのはご存知ですか?



江戸時代から続く、金魚問屋がまだ本郷にあります。
加賀前田藩に金魚を納めたり(お殿様の毒見用)、
一葉が遊びに来ていた創業350年の老舗。
現在、<癒し処>も併設されて、
美味しいお茶や珈琲を飲むことができます。
お時間のある時にでもいかが?
              →【金魚坂】の記事
     http://blog.goo.ne.jp/myu-myueno/e/8205d859bc6ade6a4a63e77d24eadd6c金魚








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