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みゅうみゅう

Author:みゅうみゅう
美味しいもの大好き!!

 このブログでは、「江戸時代」に焦点を当ててみました。
「江戸時代」といっても260年と長いので、物価に関しては、解りやすく1文20円で統一してあります。

現代のこと、畑や自然や旅行に関しては↓
http://blog.goo.ne.jp/myu-myueno

美味しいレストラン紹介は↓
http://u.tabelog.com/myumyueno/  

まで。。
良かったら読んでくださいね^^


また、江戸時代の色々な文献を読んでみてます。
面白い話題があったら、どんどん
以前の記事を改編していきたいと思っています。
写真の追加とかも・・・。

よろしくお願いします。m(。。)m...☆

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お花見には、貴賎・老若・男女関わらず参加することが出来ました。
今なら普通のことですが、身分の上下が厳しく、
階層によって住む場所も着るものも規制のあった当時としては、
大変開放感のある行事だったことでしょう。

そして、色々なひとが集まる中、恋の出会いも多々あったのです。
その恋の出会いの一役を買ったのが花見幕
大きく家紋を染め抜いたものや太い横じまのもの等様々ありました。
江戸前期後半頃の記録では、上野の境内に多い時には300あまり、
少ない時でも200の花見幕が並んだとあります。

たくさんの人が行き交う中、花見幕で囲んでしまえるのは
身分があったり富俗な人たちですが、
この花見幕の隙間から垣間見える着飾った人の影や美しい髷は、
妙に官能的で思い募ることだったのでしょう。

       すれすれなものは花見の幕隣 
       ほころびを覗いて歩く花の山

お花見は、着飾った姿を見せることのできる数少ない機会。
階層や身分を超えて見初められるやも知れず、
江戸の町方の女性達は、富裕であれ貧乏であれ、
自分の懐具合に合わせた精一杯のお洒落をして出かけたのですね。。

江戸の花見の華やかさが思い浮かぶようで、うきうきします。






  
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こちらも”暴れん坊将軍・徳川吉宗”が庶民が楽しめるように
桜・桃・柳を植えさせたのが始まり。
(この時植えられた桜は100本あまり。)
花の名所を代表する第一位はここ!と、
江戸府内絵本風俗往来』に描かれています。

隅田川の桜の人気は、やはり清流と桜とゆー風景と
江戸中心部から歩いて1時間ほどと近かったことが要因でしょう。
河畔には、掛け茶屋や料理茶屋も立ち並びます。
船から眺められる風雅な桜とゆーコトで、
文人墨客(ぶんじんぼっかく)に人気があったそうです。
隅田川の土手は、墨提(ぼくてい)という
風雅な名前で呼ばれていたのもその一因でしょう。。
付近には、浅草寺や吉原も控えていて、遊ぶには絶好の場でした。

浅草寺の境内には、
古くから茶店や見世物小屋も数多く立ち並んでいました。
また、歌舞伎に芝居街が江戸後期初頭に猿若町に移ったこともあり、
浅草寺と川を挟んだ向かい側の向島は
芸人の遊びどころとしても知られていました。
そのような地での最新流行の風を感じることも出来たのです。

今もここは桜の名所としては一位二位を競ってますね。






あの”暴れん坊将軍・徳川吉宗”が庶民が楽しめるように、
1270本の山桜を植えさせたのが始まりとゆー
飛鳥山の桜(現:飛鳥山公園)。。
江戸城内から移植した多くの桜の苗木が育つにつれ、
上野をしのぐ桜の名所に育っていったそうです。
江戸中期のことでした。

気兼ねなくどんちゃん騒げると、大人気の花見の名所だったそうです。
粋な計らいをする将軍・吉宗が人気があったのも頷けますね。

ただここは、遠いのが難点でした。
当時の交通事情だと・・・
江戸から泊りがけのお花見になってしまうのだとか。。
(江戸中心部から歩くと2時間ほど。)

ではどうして、そんな人気があったのでしょうか?
江戸後期になると”師匠の花見”などの団体がお花見に繰り出し、
素人も玄人も芸の披露していました。。
ここ飛鳥山は、その点、場所がたっぷりとあって人気だった訳です。

将軍・吉宗が治世を始めた当時、
江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなかったそうですから、
現在のお花見文化を育てたと言っても過言ではないのではないでしょうか?
開放時には、将軍・吉宗自ら
飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行ったそうです。
今の開幕キャンペーンみたいですよね?







江戸時代の人々の野遊びの筆頭だったお花見ですが、
もともと1本の名木を眺めるのが主流だったそうで、
今のお花見とは全然違いました。

桜の名所とゆーのは、いつ出来たのでしょう?

将軍・家光が吉野から桜を移植して桜並木を作ったのが
始まりとされています。
しかし、これが一般に開放されるのは江戸前期終わり頃
この頃から、
徐々に今のお花見に近い様子を見られるようになっていきました。

ただし、この上野の山の桜。
寛永寺を中心とした幕府の管理下にありました。
桜の時期にだけ、門を開いて庶民に入山が許されていました。
なので、お酒X・魚X・歌舞音曲Xだったそうで。。
いまいち人気爆発とまではいかなかった模様。
静かにお花見する老人や女子供が多かったそうです。

また、酔って乱暴・喧嘩が始まると、
山内を見廻ってる”山同心”とゆー者が
六尺棒を突き鳴らし取り鎮めに来ます。。

まあ。
これだけ規制が厳しければ、
人気もうなぎのぼりって訳にはいきませんよね@@







平安時代に桜に脚光が集まってから現在に至るまで、
日本人の心の琴線に触れる花として愛される桜。
今日本で「はな」といえば「さくら」と言ってもおかしくないほど、
親しまれる花になっています。

桜と一口に言っても実に様々な種類があります。
これらを少し、見ていきましょう。。
日本の桜の原種とゆーべき”自生種”は10種類ほどあります。

その代表格が「山桜」と「大島桜」です。
ともに花と葉が同時に開くとゆー特性があります。
山桜」の葉が赤褐色なのに対し、
大島桜」の葉は緑色をしているので、すぐに見分けがつきます。

江戸以前は「さくら」といえば「山桜」を指しました。
また「大島桜」の葉は、桜餅の使われることで有名です。
両者とも「染井吉野」と同じ時期に咲きます。

江戸彼岸桜」は彼岸の頃に咲くので、この名前があります。
この桜は、とても寿命が長く見上げるほどの大木に育ちます。
日本各地の「~桜」と名がつく一本桜は、たいてい”これ”です。

八重桜」は里桜とも言い、
おびただしい数のヴァリエーションがあります。
これらのほとんどが江戸時代に栽培品種として作られました。

また江戸時代前半には、
桜がいっせいに散る様子が武士に嫌われていたそうです。
その後合戦がなくなったことや、
「花は桜木、人は武士」という台詞が歌舞伎で使われたことなどから
武士が桜を嫌うことがなくなったともいわれています。。

江戸時代末期、この時代一番の改良品種が出てきます。
それは「染井吉野」。
江戸染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋が「吉野桜」と称し、
売り出したのが始まりで、
その後、桜の名所、吉野山のヤマザクラと区別するため、
この名がつけられたのが由来だそうです。
江戸彼岸桜」と「大島桜」の雑種です。
ただし、これが日本全国に広まったのは明治時代のことでした。。

現在では、400種もある桜の品種も
江戸に始まったものが多くあります。。
「お花見」が始まったのも、江戸時代。
とても華やかに、楽しく過ごしていた光景が目に浮かびますね。





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