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Author:みゅうみゅう
美味しいもの大好き!!

 このブログでは、「江戸時代」に焦点を当ててみました。
「江戸時代」といっても260年と長いので、物価に関しては、解りやすく1文20円で統一してあります。

現代のこと、畑や自然や旅行に関しては↓
http://blog.goo.ne.jp/myu-myueno

美味しいレストラン紹介は↓
http://u.tabelog.com/myumyueno/  

まで。。
良かったら読んでくださいね^^


また、江戸時代の色々な文献を読んでみてます。
面白い話題があったら、どんどん
以前の記事を改編していきたいと思っています。
写真の追加とかも・・・。

よろしくお願いします。m(。。)m...☆

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七味唐辛子(しちみとうがらし)は日本の調味料。
唐辛子を主原料として、各種の副材料で風味をつけるとともに、
辛味をほどよく抑えています。
漢方薬の集まりなので、体にもとっても良いです^^

また、七味唐辛子というのは上方風の名前。
江戸では七種唐辛子(なないろとうがらし)と呼ばれるのが
普通だったそうです。
しばしば「七味」と略されます。

日本での七味唐辛子のルーツは江戸初期
初代からしや徳右衛門という人が江戸・薬研堀(やげんぼり)で
売り出したことから始まります。
薬研堀は現在の東京は両国橋のあたりで、
「薬研(やげん)」とは当時の薬(漢方薬)をすり潰す道具の事で、
その名の示すように周囲は医者や薬問屋が集まっていた所でした。
当時、
漢方薬を食に利用できないかと考案されたのが七味唐辛子なのです。
この最も古い歴史を持つ『やげん堀唐辛子本舗』の七味唐辛子は
「生の赤唐辛子」「煎った赤唐辛子」「粉山椒(こなさんしょう)」
「黒胡麻」「芥子の実」「麻の実」「陳皮」

の七種類の薬味が入っています。
当時、江戸庶民のポピュラーな食べ物であった蕎麦に
ピッタリと合う薬味であったので人気が高まりました。
風邪予防にもなっていたのではないでしょうか?

ところで、日本には『やげん堀』の他に江戸時代から続いている
2軒の七味唐辛子屋さんがあることを、
そしてその2軒の七味唐辛子屋さんが使っている七種類の素材も
『やげん堀』のそれとは少しずつ違っていることを知っていますか?

江戸庶民の間で人気になった『やげん堀』の七味唐辛子は、
しだいに東京(江戸)から関西(京都、大阪)へと広がり、
やがて江戸中期
長野の善光寺と京都の清水寺の参道に独自の七味唐辛子を
売る店が現れました。

それが『八幡屋礒五郎(やはたやいそごろう)』(長野)と
『七味家(しちみや)本舗』(京都)です。

『八幡屋礒五郎』の七味唐辛子に使われている七種類の薬味は
「赤唐辛子」「生姜」「陳皮」「山椒」「黒胡麻」
「青紫蘇」「麻の実」

また、『七味家』が使っている薬味は「赤唐辛子」「山椒」
「白胡麻」「黒胡麻」「青紫蘇」「青海苔」「麻の実」
の七種類です。

それぞれの土地の食文化に適した組み合わせが生まれたわけですね。
最後に江戸の町の「七味」を売っていた物売りの口上をひとつ。

 「 とんとん、とうがらし、ひりひりからいは、さんしょのこ、
   すはすはからいは、こしょうのこ、護摩のこ、陳皮のこ、
   とんとん、とうがらし。。
   中でよいのが娘の子、
   いねぶりするのが禿(遊女見習い)の子。       
 」

いかがでしょうか?






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今は鉄とビニールでできた傘も、
江戸時代は紙と竹。リサイクルの対象になりました。

傘の古骨買い(再生するため専門に買い集める業者)

買値は傘の状態によって、四文、八文、十二文の三段階。
これ以上の超オンボロは燃料用に別に売ります。
買値が中途半端な金額なのは、
四文銭というコインが広く流通していたため、
四の倍数になっているからです。

古傘問屋

古傘買いが買い集めた古傘は、
専門の古傘問屋が集めて油紙をはがして洗い、
糸を繕ってから傘貼りの下請けに出しました。
時代劇には、
裏長屋に住む浪人者が内職に傘を貼っている場面が
しばしば登場しますが、
あれはほとんどが古傘の再生だったのではないでしょうか?

はがした油紙は、
痛みの激しい部分には焚き付けにでもしたのでしょうが、
広い面積が使える部分は丁寧にはがして
特殊な包装用に売っていたそう。
傘に貼ってあったから雨風にさらされて桐油の臭みは抜けていますが、
まだ防水性が残っているので、
味噌や魚の包装紙等に使われていました。

見事なリサイクルシステムです^^。。






江戸でネギが栽培されるようになったのは、
関西からの入植者が開拓した砂村や
宿場町として栄えていた品川でした。
これらのネギは関西系の葉ネギ。
寒さに弱く霜枯れしてしまいましたが、
土の中の白い葱は変わらず美味だった為、
改良されて白茎葱として発展。広がっていきました。

とくに「千住ネギ」は、
その品質・収量が優れていることから、関東の代表品種となり、
日本全国で栽培されるほどの人気になりました。
産地の中心は、南葛飾郡金町村(現在の葛飾区金町・東金町)で、
砂村から伝わった「砂村ネギ」と地元のネギ等から
選抜改良されていきました。。

ネギの白い部分は、葉の一部が重なったものですが、
ここが長くて、びっしりと詰まったしまりのよいもの程、
良品とされます。
その為には、最初から深く植えるのではなく、
成長に従って徐々に土寄せして盛り上げていく栽培方法が有効でした。
これには、水はけがよく乾燥しない土が適していて、
崩れやすい火山灰土は向きません。
「千住ネギ」の産地である葛飾区・足立区一帯は、
もともと川の氾濫地帯で水分を含んだ沖積(ちゅうせき)地帯の為、
ネギの栽培に最適だったのです。

ここ千住に日本で唯一、長葱だけの市場が今もあります。
屋号は山柏、江戸末期から続く青果市場(現:山柏青果物市場)です。

江戸時代は、他の物も扱う市場だったのですが、
現在ではこの日本でもまれに見る専門市場(つまり葱のみ)。
ここには近郊の極上ものが続々と集まってきます。
競りの時間は朝の6時半から、それもわずか10分程。
この市場があってこそ、高い品質と流通が守られています。







お花見には、貴賎・老若・男女関わらず参加することが出来ました。
今なら普通のことですが、身分の上下が厳しく、
階層によって住む場所も着るものも規制のあった当時としては、
大変開放感のある行事だったことでしょう。

そして、色々なひとが集まる中、恋の出会いも多々あったのです。
その恋の出会いの一役を買ったのが花見幕
大きく家紋を染め抜いたものや太い横じまのもの等様々ありました。
江戸前期後半頃の記録では、上野の境内に多い時には300あまり、
少ない時でも200の花見幕が並んだとあります。

たくさんの人が行き交う中、花見幕で囲んでしまえるのは
身分があったり富俗な人たちですが、
この花見幕の隙間から垣間見える着飾った人の影や美しい髷は、
妙に官能的で思い募ることだったのでしょう。

       すれすれなものは花見の幕隣 
       ほころびを覗いて歩く花の山

お花見は、着飾った姿を見せることのできる数少ない機会。
階層や身分を超えて見初められるやも知れず、
江戸の町方の女性達は、富裕であれ貧乏であれ、
自分の懐具合に合わせた精一杯のお洒落をして出かけたのですね。。

江戸の花見の華やかさが思い浮かぶようで、うきうきします。






  
次月4月の江戸暦、お届けします。

≪4月≫


1日……【朔日(さくじつ)お供え】

    【更衣(ころもがえ)】この日より、
               5月4日までは袷(あわせ)を着る。
               9月8日までは足袋もはかない。


8日……【潅仏会(かんぶつえ)】釈迦の誕生日に行われる行事。
                寺に季節の花を飾り、
                花御堂の中に仏像を安置し、
                甘茶をかけて生誕を祝う。 



<4月>から初鰹が売られ始める。。
こちらも”暴れん坊将軍・徳川吉宗”が庶民が楽しめるように
桜・桃・柳を植えさせたのが始まり。
(この時植えられた桜は100本あまり。)
花の名所を代表する第一位はここ!と、
江戸府内絵本風俗往来』に描かれています。

隅田川の桜の人気は、やはり清流と桜とゆー風景と
江戸中心部から歩いて1時間ほどと近かったことが要因でしょう。
河畔には、掛け茶屋や料理茶屋も立ち並びます。
船から眺められる風雅な桜とゆーコトで、
文人墨客(ぶんじんぼっかく)に人気があったそうです。
隅田川の土手は、墨提(ぼくてい)という
風雅な名前で呼ばれていたのもその一因でしょう。。
付近には、浅草寺や吉原も控えていて、遊ぶには絶好の場でした。

浅草寺の境内には、
古くから茶店や見世物小屋も数多く立ち並んでいました。
また、歌舞伎に芝居街が江戸後期初頭に猿若町に移ったこともあり、
浅草寺と川を挟んだ向かい側の向島は
芸人の遊びどころとしても知られていました。
そのような地での最新流行の風を感じることも出来たのです。

今もここは桜の名所としては一位二位を競ってますね。






江戸時代、リサイクル業者は色々いました。
今よりもっとエコ度が高かったのです。

こちら鋳掛屋は、金属製品の修理専門業者。

江戸時代から昭和期にかけての家財道具である鍋・釜は
鋳造によって作られていました。
当時の鋳造技術ではスが入りやすく、
またひび割れ等により穴が開くことが多々ありました。
その一方、「月夜に釜を抜かれる」といったことわざに
みられるように泥棒が真っ先に狙うほど鍋釜は大変な貴重品でした。
従って穴が開いたとしても、
容易に捨てたり買い換えたりするわけにいかず、
修理しながら使っていたのです。
燭台が折れたりした時も直して使っていました。

一般的には村々を巡回する商売でした。
従って鉄を溶解するような設備を持ち歩く訳には行きません。
鉛や錫などの低融点金属を用いて穴を塞いで(ハンダ)いたのです。
金属を「鋳て」(溶かして)「かける」から
いかけや」といったのです。

今では全く見かけませんが、
ものが貴重だった昭和30年代頃までは、
東京の住宅地でも巡回していたそうです。
但し、職業としては今も残っています。
小型の鐘、大釜などを直す鋳掛け屋です。







あの”暴れん坊将軍・徳川吉宗”が庶民が楽しめるように、
1270本の山桜を植えさせたのが始まりとゆー
飛鳥山の桜(現:飛鳥山公園)。。
江戸城内から移植した多くの桜の苗木が育つにつれ、
上野をしのぐ桜の名所に育っていったそうです。
江戸中期のことでした。

気兼ねなくどんちゃん騒げると、大人気の花見の名所だったそうです。
粋な計らいをする将軍・吉宗が人気があったのも頷けますね。

ただここは、遠いのが難点でした。
当時の交通事情だと・・・
江戸から泊りがけのお花見になってしまうのだとか。。
(江戸中心部から歩くと2時間ほど。)

ではどうして、そんな人気があったのでしょうか?
江戸後期になると”師匠の花見”などの団体がお花見に繰り出し、
素人も玄人も芸の披露していました。。
ここ飛鳥山は、その点、場所がたっぷりとあって人気だった訳です。

将軍・吉宗が治世を始めた当時、
江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなかったそうですから、
現在のお花見文化を育てたと言っても過言ではないのではないでしょうか?
開放時には、将軍・吉宗自ら
飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行ったそうです。
今の開幕キャンペーンみたいですよね?







江戸時代の人々の野遊びの筆頭だったお花見ですが、
もともと1本の名木を眺めるのが主流だったそうで、
今のお花見とは全然違いました。

桜の名所とゆーのは、いつ出来たのでしょう?

将軍・家光が吉野から桜を移植して桜並木を作ったのが
始まりとされています。
しかし、これが一般に開放されるのは江戸前期終わり頃
この頃から、
徐々に今のお花見に近い様子を見られるようになっていきました。

ただし、この上野の山の桜。
寛永寺を中心とした幕府の管理下にありました。
桜の時期にだけ、門を開いて庶民に入山が許されていました。
なので、お酒X・魚X・歌舞音曲Xだったそうで。。
いまいち人気爆発とまではいかなかった模様。
静かにお花見する老人や女子供が多かったそうです。

また、酔って乱暴・喧嘩が始まると、
山内を見廻ってる”山同心”とゆー者が
六尺棒を突き鳴らし取り鎮めに来ます。。

まあ。
これだけ規制が厳しければ、
人気もうなぎのぼりって訳にはいきませんよね@@







平安時代に桜に脚光が集まってから現在に至るまで、
日本人の心の琴線に触れる花として愛される桜。
今日本で「はな」といえば「さくら」と言ってもおかしくないほど、
親しまれる花になっています。

桜と一口に言っても実に様々な種類があります。
これらを少し、見ていきましょう。。
日本の桜の原種とゆーべき”自生種”は10種類ほどあります。

その代表格が「山桜」と「大島桜」です。
ともに花と葉が同時に開くとゆー特性があります。
山桜」の葉が赤褐色なのに対し、
大島桜」の葉は緑色をしているので、すぐに見分けがつきます。

江戸以前は「さくら」といえば「山桜」を指しました。
また「大島桜」の葉は、桜餅の使われることで有名です。
両者とも「染井吉野」と同じ時期に咲きます。

江戸彼岸桜」は彼岸の頃に咲くので、この名前があります。
この桜は、とても寿命が長く見上げるほどの大木に育ちます。
日本各地の「~桜」と名がつく一本桜は、たいてい”これ”です。

八重桜」は里桜とも言い、
おびただしい数のヴァリエーションがあります。
これらのほとんどが江戸時代に栽培品種として作られました。

また江戸時代前半には、
桜がいっせいに散る様子が武士に嫌われていたそうです。
その後合戦がなくなったことや、
「花は桜木、人は武士」という台詞が歌舞伎で使われたことなどから
武士が桜を嫌うことがなくなったともいわれています。。

江戸時代末期、この時代一番の改良品種が出てきます。
それは「染井吉野」。
江戸染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋が「吉野桜」と称し、
売り出したのが始まりで、
その後、桜の名所、吉野山のヤマザクラと区別するため、
この名がつけられたのが由来だそうです。
江戸彼岸桜」と「大島桜」の雑種です。
ただし、これが日本全国に広まったのは明治時代のことでした。。

現在では、400種もある桜の品種も
江戸に始まったものが多くあります。。
「お花見」が始まったのも、江戸時代。
とても華やかに、楽しく過ごしていた光景が目に浮かびますね。





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